みなさま、ご機嫌いかがでしょうか。
本日は2024年で没後100年、フランスの作曲家フォーレさんについてお話したいと思います。
そして今日はフォーレさんのお誕生日です。
おめでとうございます!!
フォーレさんてだあれ?
名前だけ聞いても「?」かと思いますが、
「シシリエンヌ」の作曲家です。
この曲のタイトルも「?」かもしれませんが、聴いてみると「あぁ、この曲か」と知っている方も多いのではないでしょうか。
儚げで美しいメロディーが魅力的です。
フォーレさんの楽曲は掴みどころのないふわっとした響きが特徴で、異名同音(※1)で曲が進行していくものが多いです。
その為暗譜の難易度が結構ガチ勢向け。
でもその淡い色合いの曲風が本っ当に美しくて芸術的です。
ロマン派(※2)後期の作曲家で、なんとサン=サーンスさん(白鳥の人)が先生、ラヴェルさん(ボレロの人)が生徒さんです。
本日はそんなフォーレさんの生涯をざっくりまとめました。
※1 異名同音
音名は異なるが、実際聴こえてくる音は同じ音のこと。
ド#とレ♭みたいな感じ。
※2 ロマン派
個人的な情緒性や日常からの離脱などを特色としたような作風の音楽。形式や楽章にとらわれない、とにかくロマンチックな旋律と響きが魅力的。
ショパンさんとかシューマンさんが有名。
フォーレさんの生涯
無口だけど何かに夢中になれる少年、非凡な才能を発揮
フォーレさんは1845年5月、南フランスのアリエージュ県、パミエに生まれました。
画像はwikipediaより引用し加筆
かなりスペイン寄りなんですね
6人姉弟の末っ子で、長女のお姉さん、4人のお兄さん全員が社会的に活躍していたようです。
エリート一家なんですね!
フォーレも礼拝堂でオルガンを、お父さんの学校でピアノを学び幼いころから非凡な才能を発揮しました。
9歳でニデルメイエール宗教学校(音楽学校)に入学し、ニデルメイエール先生とサン=サーンス先生のもとで学びました。
サン=サーンス先生とは年は離れていますが、かけがえない友人として一生涯お付き合いをしていくことになります。
卒業後、オルガニストとして活躍
音楽学校卒業後はオルガン奏者として活躍しました。
1871年にはサン=サーンス先生が設立した「国民音楽協会(※3)」にも参加します。
そこで自分の作品を発表する機会があり、作曲家としても活動していました。
ただ、フォーレさんの作品はあまり一般的には浸透しておらず、サロン向けの音楽として認識されていました。
しっかり聴き入るための音楽というよりはお客さんをもてなすための品のあるBGM、みたいな立ち位置でしょうか。
その為自分の作品に自信が持てなかったようです。
そんな中、彼に転換期がやってきます。
※3 国民音楽協会
普仏戦争後、フランス人だけで設立された音楽協会。フランス音楽の復興を目指した団体
フォーレ先生、ラヴェル事件に巻き込まれる
1896年にマドレーヌ教会の首席ピアニストに任命され、1897年にはパリ国立音楽院の作曲家の教授となりました。
教え子にはラヴェルさんなど、優秀な生徒さんが集まりこれをきっかけにフォーレさんの名前が徐々に世間に知られるようになっていきます。
1905年には「ラヴェル事件」が勃発。
この事件にフォーレ先生も巻き込まれていきます。
ラヴェル事件のきっかけは「ローマ賞」という当時のコンクールで優勝候補のラヴェルさんがまさかの予備審査で落選したことでした。
この時のラヴェルさんはイラストよりも若いです。
実はこの大会で本選の出場者に選ばれた人たちはみんな審査員の教え子で、世間はこの事実を知り大炎上!
ラヴェルさんを擁護している人たちが「ラヴェルの師匠のフォーレも保守的なパリで不当に扱われている!」
と声を上げ、これをきっかけにパリ音楽院の院長が辞任し、その後フォーレさんが院長に就任しました。
院長に就任したことで彼の作品が認められ、これまでのサロン音楽というレッテルが剥がれ重要な音楽会で演奏されるようになりました。
彼の名声は確かなものとなっていきます。
聴覚異常に悩まされながらも作曲活動はやめない
フォーレさんは50代頃から聴覚異常に悩まされていました。
全く音が聴こえないわけではなく、高い音は少し低く、低い音は少し高く聞こえるという障害です。
とても緻密な和声を重ねて繊細に調が移ろっていく曲を作るフォーレさんにとって、音程がずれて聴こえるのはもしかしたら全然聴こえないことよりももっと辛かったかもしれませんね…。
そんな状況になっても作曲活動は続け、1924年に肺炎を患いその生涯を閉じました。
葬儀はフランス国葬としてマドレーヌ寺院でとり行われました。
その葬儀でフォーレさんの名曲、レクイエムが演奏されました。
今回はフォーレさんの生涯を紹介しました。
次回は曲風やフォーレさんの性格についてお話したいと思います!